เข้าสู่ระบบ二階の廊下は、死んだように静かだった。
突き当たりの重厚な扉。 カードキーをかざすと、無機質な電子音とともにロックが外れた。ノブを回し、ゆっくりと押し開ける。 「っ……」 一歩踏み入れた瞬間、息が止まった。 遮光カーテンで閉ざされた薄暗い部屋。私のアパートが丸ごと入りそうな広さの中央に、キングサイズのベッドが鎮座している。 そして、匂い。 リビングとは桁違いだ。鼻孔を突き刺すような、鮮烈な「彼」の匂いが充満している。 高いコロンと、微かな煙草。そこに男の人特有の体温が混ざった、頭がくらくらするような香り。四年前のあの夜、私を組み敷いた彼から漂っていたものと同じだ。 (征也……) いないはずなのに、視線を感じて足がすくむ。 逃げるようにスイッチを押した。 照明が灯り、モデルルームみたいに片付いた部屋が浮かび上がる。けれど、ベッドサイドには飲みかけのグラスと、無造作に置かれた腕時計。 ここで彼が寝起きしている。その生々しさに、胃のあたりがギュッと縮んだ。 「さっさと終わらせよう……」 ワゴンからシーツを取り出し、ベッドへ近づく。 誰かが寝ていた重みで、掛け布団が乱れている。 剥がそうと手を伸ばした時、指先が枕に触れた。 ひやりとしたシルクの感触。 瞬間、指先から電流が走った気がした。 ――『俺のものになりたいんだろう?』 あの夜の囁きが蘇る。耳にかかる湿った吐息、シャツの中に滑り込んできた骨ばった手。 怖くて、惨めで。でも同じくらい、身体の芯が疼いた記憶。 拒絶された傷は塞がっていない。なのに、彼の痕跡に触れると、どうしてこんなに胸がざわつくんだろう。 (……何してるの、私) 馬鹿なことだとわかっている。 私は家政婦で、彼は雇い主。しかも、私をゴミのように捨てた男だ。 けれど、磁石に吸い寄せられるみたいに、枕を両手で持ち上げていた。 顔を埋め、深く息を吸い込む。 「……ん……」 肺が、征也の匂いで満たされる。 冷たくて鋭い、でもどこか甘い香り。脳が痺れて、まるで彼に抱きしめられているような錯覚に陥る。 泣いていた私の頬を、彼が拭ってくれているような――そんな都合のいい幻覚に、一瞬だけ溺れた。 「……変わってない」 枕を抱きしめて蹲る。 誰にも言えない。言えるわけがない。こんな、浅ましくて惨めな秘密。その時だった。
――シャー…… 微かな水音が、鼓膜を叩いた。 弾かれたように顔を上げる。音は部屋の奥、ウォークインクローゼットの先にあるバスルームからだ。 シャワー? 「え……?」 血の気が引いていく。 嘘でしょ。この時間は会社にいるはずじゃなかったの? 依頼書には「不在時の清掃」って書いてあった。 水音は続いている。誰かが、あそこにいる。 (まさか……征也?) 心臓が早鐘を打つ。 逃げなきゃ。シャワーを浴びている間に、こっそり出ていけば――。 立ち上がろうとした、その瞬間。 ピタリ、と音が止んだ。 しん、と静まり返る部屋に、私の荒い呼吸だけが響く。 終わった。出てくる。 金縛りにあったみたいに足が動かない。視線が、曇りガラスのドアに釘付けになる。 ガチャリ。 ノブが回り、内側からドアが開いた。 溢れ出した白い湯気と一緒に、圧倒的な気配が流れ込んでくる。 現れたのは、半裸の征也だった。 腰に巻いたバスタオルが一枚だけ。濡れた黒髪から滴る水が、広い額、鼻筋を伝って、鎖骨の窪みへ滑り落ちていく。 厚い胸板、綺麗に割れた腹筋。かつての青年の面影なんてない。自信と力を持て余した、大人の男の身体がそこにあった。 「……っ!」 悲鳴も出ない。抱きしめていた枕を盾にするみたいに、身体を縮こまらせた。 見てはいけないものを見た罪悪感と、あまりにも強烈な「オス」の匂いに、頭が真っ白になる。 彼はタオルで髪を拭きながら、部屋にいる侵入者を見下ろした。 目が、合う。 氷みたいに冷たくて、でも奥底で暗い炎が揺れている瞳。 「……あ、あの、私は……!」 喉が張り付いて声が出ない。 彼は何も言わず、ゆっくりと近づいてくる。濡れた素足がカーペットを踏む音もしない。 距離が縮まるにつれ、鼻を満たしていた「彼の匂い」が、本物の体温と湿り気を伴って濃厚になっていく。「殺されるのはあなたよ」 私は冷たく言い放った。 もう、彼を哀れむ気持ちさえ湧いてこない。 「あなたは彼を『敗北者』だと言ったわね。……でも見て。今、尻尾を巻いて逃げようとしているのは誰?」 「黙れッ!!」 蒼くんが叫び、メスを振りかざして私に飛びかかってきた。 もはや理性などない。 私を連れて行けないなら、ここで壊してしまおうという、破滅的な狂気。 「……っ!」 逃げ場がない。 鋭い刃先が、私の喉元に迫る。 目を閉じて、お腹をかばうようにうずくまった、その瞬間。 ドォォォォォンッ!! 真下から、爆発のような音が響いた。 床が抜け落ちるかと思うほどの衝撃。 そして。 「――神宮寺ィィィィッ!!!」 地獄の底から響くような、咆哮。 その声の圧力だけで、空気がビリビリと震えた。 蒼くんの動きが止まる。 メスを持つ手が、空中で凍りつく。 カツ、カツ、カツ。 階段を上がってくる足音。 一つ一つの音が重く、心臓を直接踏みつけられるような威圧感。 ただ歩いているだけなのに、それが死へのカウントダウンに聞こえる。 蒼くんが、後ずさった。 「ひっ……」と、喉の奥から情けない悲鳴が漏れる。 そして、開け放たれたドアの向こうに、黒い影が立った。 「……あ」 息を呑んだ。 そこにいたのは、人間ではなかった。 憤怒の業火を纏い、現世に顕現した魔王そのものだった。 天道征也。 高級なスーツは雨と泥で汚れ、あちこちが裂けている。 髪は濡れて額に張り付き、水滴が顎から滴り落ちていた。 けれど、そんなことはどうでもよかった。 その瞳。 漆黒の瞳が、爛々と燃えている。 私を監禁していたこの部屋の空気を、一瞬で焼き尽くすほどの熱量。 視線だけで人を殺せるなら、蒼くんはもう百回は死んでいるだろう。 彼の背後には、フル装備のSPたちが数名
世界が、崩壊する音がした。 ドオォォォォォォン――!! 鼓膜を突き破るような爆音と共に、足元の床が激しく突き上げられる。 地震? いいえ、違う。もっと暴力的で、物理的な破壊の衝撃。 直後、1階の方から、ガラスが砕け散る鋭い音と、何かがひしゃげるような鈍い金属音が連続して響き渡った。 「……きゃぁっ!」 私は窓際から弾き飛ばされ、床に尻餅をついた。 建物全体が悲鳴を上げている。 無機質で静謐だったこの「白い檻」が、たった一撃で粉々に打ち砕かれたのだ。 けたたましい警報音が鳴り響く。 非常用電源に切り替わったのか、照明が落ち、赤い回転灯だけが不気味に明滅し始めた。 「な、なんだ……っ!?」 廊下の方から、蒼くんの裏返った叫び声が聞こえる。 彼は手術道具を取りに行っていたはずだ。 その足音が、ドタドタと慌てふためいて階段を駆け下りていくのが気配でわかった。 「……来た」 確信があった。 震える膝に力を込め、私は立ち上がった。 恐怖はない。あるのは、全身の血が沸騰するような、熱い高揚感だけ。 窓の外、鉄格子の隙間から見下ろした光景が、脳裏に焼き付いている。 朝霧を切り裂いて突っ込んできた、巨大な黒い鉄塊。 あれは、ただの車じゃない。 私を奪還するために放たれた、怒れる魔獣だ。 「征也くん……!」 私はドアに駆け寄り、ノブを回した。 鍵はかかったままだ。 でも、もう関係ない。この扉が破られるのも、時間の問題だ。 階下から、怒号と悲鳴が聞こえてくる。 蒼くんが雇っていた私兵たちの声だろうか。 「止まれ!」「撃つぞ!」という叫び声に対し、返答するのは重たい銃声のような音と、骨が砕けるような打撃音だけ。 圧倒的だ。 まるで、象が蟻の巣を踏み荒らしていくように。 何の躊躇いもなく、慈悲もなく、障害物を排除しながら、「彼」が近づいてくるのがわかる。 会いたい。 一秒でも早く、彼の姿を見
「ち、違う! 僕は……僕は君を愛しているから……!」「愛? それが愛?」 私は鼻で笑った。征也の、あの自嘲気味な笑みを真似て。「あなたが愛しているのは、自分自身だけよ。……自分の思い通りになる、綺麗な人形が欲しいだけ。……そんなの、愛じゃない。ただの自己満足よ」「き、貴様……!」 蒼が逆上し、手を振り上げた。 でも、その拳は空中で止まった。 殴れば、私が傷つく。彼が執着する「綺麗な莉子ちゃん」に傷がつく。その矛盾が、彼の動きを封じていた。 私の読み通りだ。彼は、自分のコレクションを自ら損なうことはできない。「ほら、できない」 私は冷たく言い放った。「あなたは一生、征也には勝てない。……征也は、私を傷つけることさえ厭わなかった。それだけの覚悟を持って、私を愛したのよ」「あいつの名前を出すな!!」 蒼が絶叫し、近くにあった椅子を蹴り飛ばした。椅子が壁に激突し、大きな音を立てて壊れる。 彼は肩で息をしながら、私を睨みつけた。その目は、もはや理性を失った獣のようだった。でも、その奥には、決定的な敗北感と、怯えが見え隠れしていた。「……後悔させてやる」 彼はギリギリと歯ぎしりをしながら、呻くように言った。 「そんなに痛みが欲しいなら、望み通りにしてやる。……もう手加減はしない。手術道具を持ってくる。……麻酔なしで、君の中身を抉り出してやる!」 彼は踵を返し、部屋を飛び出していった。 バン、とドアが閉まる音が、悲鳴のように響く。 部屋に残された私は、ふらりとその場に座り込んだ。 心臓が、痛いくらいに脈打っている。手のひらは汗でびっしょりと濡れていた。 怖かった。本当は、足が震えて立っていられないほど怖かった。 でも、勝った。彼の精神的な急所を突き、時間を稼ぐことができた。「……征也」 お腹に手を当てる。この子はまだ、ここにいる。私が守ったんだ。征也から貰った勇気で、彼の虚勢を借りて。「……見ててくれた?」 窓の外を見る。嵐はまだ続いている。でも、空の向こうから、微かな光が差し込み始め
「いい加減にしてくれ。……僕の忍耐にも限界がある」 彼は私の腕を掴み、強引に引き寄せた。冷たい指が肉に食い込む。反対の手で私の顎を強く押さえつけ、無理やり口を開かせようとする。「んぐっ……! やめ……っ!」「飲み込め! 昔みたいな、僕の莉子ちゃんに戻るんだ!」 小瓶が唇に押し当てられる。冷たいガラスの感触。液体がこぼれ、頬を伝う。 その時、ふと脳裏に浮かんだのは、征也の顔だった。『お前は俺のものだ』 あの傲慢で、強引で、でも誰よりも私を求めてくれた男の顔。 彼はいつだって、正面から私にぶつかってきた。傷つけ、傷つきながら、それでも私という人間を見ていた。 それに比べて、目の前のこの男はどうだ。 薬を使って眠らせ、こっそりと排除しようとする。自分の手を汚さず、綺麗なままでいようとする。 なんて卑怯で、なんて小さな男なんだろう。 恐怖が、ふっと消えた。 代わりに湧き上がってきたのは、氷のように冷たく、そして鋭い怒りだった。 私は蒼の手首を掴み、渾身の力で押し返した。不意をつかれた彼は、バランスを崩してよろめく。「……っ!」 小瓶が手から滑り落ち、床で割れた。中の液体が飛散し、カーペットに染み込んでいく。「あ……」 蒼は呆然と床を見つめ、それからゆっくりと顔を上げた。その目は、怒りで血走っていた。「……何をしたか、分かっているのかい?」 低い声。彼は拳を握りしめ、震えていた。「せっかく、苦しまないようにしてあげたのに。……そんなに痛い目を見たいのか?」 彼は私に掴みかかろうとした。 でも、私は逃げなかった。ベッドの上に立ち上がり、彼を見下ろした。 その瞬間、私の中に何かが降りてきた気がした。それは、かつて私を支配し、そして愛してくれた男の魂だ。私は背筋を伸ばし、顎を上げて、冷ややかに彼を見据
嵐の気配が遠ざかり、部屋には重く澱んだ静寂だけが残った。 窓の外はまだ薄暗い。夜明けにはまだ間があるはずだ。私はベッドの隅で膝を抱え、自分のお腹をかばうように身体を丸める。 ここには、小さな命がある。 征也との間に生まれた、たったひとつの希望。でもその灯火は今、風前の灯火のように頼りなく揺らいでいた。 ガチャリ。 無機質な金属音がして、ドアが開く。 入ってきたのは神宮寺蒼だった。手には銀のトレイを持っている。その上には水の入ったグラスと、小さなガラスの小瓶が置かれていた。「……莉子ちゃん」 彼は甘く、優しい声で私の名前を呼ぶ。 まるで、愛しい恋人に語りかけるように。 でも、その目は笑っていない。眼鏡の奥にあるのは、冷え切った執着と、目的を遂行しようとする機械的な意思だけだ。「明日の手術まで待とうと思ったんだけどね……やっぱり、早いほうがいい」 彼はトレイをサイドテーブルに置き、小瓶を手に取る。中には透明な液体が入っていた。「手術は体に負担がかかるからね。……薬の方が、君のためにもなると思って」「……なに、それ」 震える声で尋ねる。答えなんて分かっているのに。「綺麗になるための薬だよ」 蒼はにっこりと微笑んだ。「これを飲めば、君の中の『汚れ』は流れて消える。……痛みもほとんどないはずだ。眠っている間に、全部終わるよ」 堕胎薬。 彼は本気だ。私のお腹の子を、ただの汚物として処理しようとしている。「……嫌」 私はベッドから後ずさり、壁に背中を押し付けた。「絶対に嫌。……飲まない」「駄々をこねないでくれ。君のためなんだ」 蒼が一歩近づく。その手には、まだ封を切られていない小瓶が握られている。「君だって、あんな男の子供なんて産みたくないだろう? 父親を殺した男の種だよ?
「……え?」「この別荘の周りには、僕の私兵を配置してある。……武装したプロたちだ。もし天道がのこのこ現れたら、蜂の巣にしてやるよ」 蒼は狂ったように笑った。「君の目の前で、愛する男が肉塊に変わるのを見れば……君も少しは大人しくなるかな?」「やめて……! お願い、彼には手を出さないで!」「遅いよ。……もう賽は投げられたんだ」 蒼は窓の方を指差した。「聞こえるだろう? ……雨の音が」 激しい雨音。風の唸り。 窓の外では、嵐が世界を飲み込もうとしていた。「この嵐の中、彼は必死に君を探しているはずだ。……哀れな獣だね。罠があるとも知らずに」 蒼は部屋を出て行こうとした。私は床を這って追いかけ、彼のガウンの裾にしがみついた。「お願い! やめて! 私が悪かったから……言うことを聞くから! だから征也くんだけは……!」「……もう手遅れだよ」 蒼は冷たく私を見下ろし、足を振り払った。「明日の朝、手術が終わったら……君に新しい首輪をつけてあげる。……僕だけの、永遠の首輪をね」 バタン。 ドアが閉められ、鍵がかかる音が響く。私は床に突っ伏して、声を上げて泣いた。「うあぁぁぁぁ……ッ!!」 ごめんなさい。ごめんなさい、征也。ごめんなさい、私の赤ちゃん。 私のせいで。私が馬鹿だったせいで、あなたを死なせてしまうかもしれない。 悔やんでも悔やみきれない。恐怖で体が震え、涙で息ができなくなるほど泣きじゃくった。 どれくらい、そうしていただろう。 嵐の音だけが響く部屋で、涙も枯れ果て、ただ床の冷たさだけが肌に沁みてくる。 指一本動かす気力もない。この







